後鳥羽上皇の翻意に三浦胤義らが憤慨「承久の乱」朝廷方最後の奮戦
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑮
ちなみに、前述の胤義らが後鳥羽上皇に奏聞した、その後のやりとりも興味深い。「御所に籠って敵を待ち受けて、力の限り戦って討ち死にする所存です」との胤義らの奏上に対し、上皇の返事が何ともつれないものであった。「胤義らが御所に籠もれば、鎌倉方の武士たちが包囲して攻撃することになる。それは不本意ゆえ、早くどこなりと立ち去れ」というものであった。
これに憤慨した胤義が、上皇の誘いに乗って謀反を起こしたことを後悔。鎌倉方に与する兄・義村の手にかかって命を捨てようと東寺に立て籠もっている。
その間にも、東国武士が続々入京。合戦が繰り広げられて、両陣営とも多くの郎従が戦死したが、胤義が望んだ兄との戦いは、実現しなかった。それは、兄が「愚か者と渡り合っても無駄」とばかりに、早々に立ち去ってしまったからである。
それでも、わずかに残った義村の配下らと最後の戦いを繰り広げた後、洛西木島里(このしまさと)に落ち延び、この重連とともに自害して果てた。首は郎従が太秦の女房のもとに持ち帰ったものの、兄・義村が奪い取って泰時のもとに送ったという。
また、後鳥羽上皇の近習であった山田重忠も、胤義らとともに東寺に立て籠もった末、幕府方に攻め込まれて敗走。嵯峨般若寺山(京都市右京区)へと落ち延びて自害。重忠の嫡子・重継も捕らえられて殺害された。孫の兼継は越後に流された後、僧侶となって余生を送ったという。
上皇に門前払いされた他の勇士たちも、上皇の意に反して最後の決戦に臨んだ。摂津源氏・渡辺綱の後裔にあたる源翔は、入京した鎌倉方と一戦を交えた末、綱ゆかりの地というべき大江山へと落ちていった。
東国武士は、入京した後、畿内、畿外に充満。戦場から逃れた京方の兵を探し出して首を切るなど、惨状が絶えなかった。
監修・文/藤井勝彦
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